パイン農家での休みは、繁忙期のため週1日(40日間での休みは6日間)。
本当に本当に貴重な休みに何をするか、それを考えるのが延々とパインを箱に入れる中での楽しみです。
西表島での休日を、ほんの少し紹介したいと思います。
島民いわく「島の自然を一番感じられる場所」
休みだということにウッキウキで港に向かっていると、見慣れたトラクターが止まりました。乗っていたのはバイト先の代表者て、声をかけられました。
「港に行くよりも、もっと面白いところに連れて行ってやる。そこには島の植物がたくさん生えてるぞ。」
2つ返事でトラクターに乗り込み、いざ出発〜!
たどり着いたのは「タカピシ」地区というところで、左の道を進むと「ピナイサーラの滝」に行けるらしい。
トラクターから降りると、代表者からアドバイスが一つ。
「昨日は雨が降ったから、ハブがでるかもしれない。何か棒を持ってけ。」
・・・・・・!?
ああ、行ってしまわれた・・・
アドバイス通り棒を持って、片道2キロの道を歩き出す。
ハブはいないけど、人もいない。
緑が多いのはわかるけれど、植物の種類に詳しくないから、多いのかどうかがわからない。勉強不足。
心細くなりながらもトボトボと歩いていると、荷台に人を乗せたトラックが来たので少し立ち話をしました。
背負った銃でカラスを仕留めに行くようで、パイン農家での働いていると伝えると、タカピシの方が育てやすいとのこと。
トラックの人たちに別れを告げて歩き始めると、「ガサッ」と音がしたので思わず横を向く。
特に何もなかったのだけれど、ふと森が濃いように感じられました。
そして森が濃いのは植物が密集しているということで、たくさんの種類が生きているからなのではないかとも。
振り返ると先ほどまで歩いてきた道が姿を変え、何やら楽園のように見えるから不思議。
多様性があれば各々で住みやすい場所を探し、同じ空間でもより多くの生き物が生きられる。
私たちの社会でも言えることで、同じような人たちで限られた資源を独占するのではなく、色んな人たちで特性に合わせて生きると世界は豊かになるのでは。
と、そんなことを思っていると、道に終わりが見えたので引き返すことにしました。
マリュドゥの滝よりも知ってほしい島の歴史
(中央左かピナイサーラの滝です)
西表島に来る人には「観光で」「ダイビングをしに」「自然調査」など、いろんな理由があります。
たしかに西表島には有名な観光名所や驚くほど色鮮やかな海、豊かな自然にあふれていますが、なんとも言えない歴史もあるのです。
人頭税
さかのぼること琉球王府の時代、西表島の島民は「人頭税」が課され、王府の維持のために多くの米が生産されていました。
人頭税
琉球王府が薩摩藩の植民地となり貢租を負担しなければならなくなったため、1635年に八重山の島々に「人頭税」制度を導入。
男は15歳から49歳まで年貢に米を納め、女は織物を納めることが義務付けられていた。
島で作れるお米の量には限りがあり、不作の年であっても「人頭税」が減量されることはありません。
人頭税による年貢の納入は1902年まで続き、約250年もの間、島民は苦しめられていたのです。
綺麗だとお土産に買っていたあの織物は、納めなけれなならないから必死になって織られていたんだろうと思います。
ちなみに人頭税に苦しまれる島民の姿を世に知らしめたのは、1893年に西表島を訪れた青森出身の笹森儀助氏。
同じ青森出身の大先輩であることに感動し、いつか自分も小さくていいから意味のある何かを世に伝えられたら。
移民
これまた休みの日に解放感から鼻歌を口ずさみながら歩いていると、「入植記念碑」なるものが目に入りました。
この記念碑は西表島西部の「住吉」とよばれる地区で、戦後に焼け野原となってしまった宮古島からの移民が開拓した土地です。
また西表島東部に行くと、「忘勿石(わすれないし)」というところがあります。
(島の大掃除の集合場所なんかになったりしてました。)
ときは第二次世界大戦末期、波照間島の島民が軍の命令で強制疎開された結果、伝染病のマラリアに全員がかかり3分の1の命が失われました。
石碑には、
「軍命による強制疎開の為に、風土病の悪性マラリアに罹患(りかん)、戦わずして尊い人命を失った。」
と書かれています。
こんなにも綺麗な場所なのに、さかのぼれば悲しい出来事もあったんだな。
今は何もできないので、ただ知るということだけ。
西表炭鉱
「マリュドゥの滝」に向かう途中に「宇田良(うたら)炭鉱」という場所があり、今もなお西表島の炭鉱歴史を物語るように存在しています。
西表島は沖縄で唯一の炭鉱島であり、1879年(明治12年)に琉球王朝が崩壊して沖縄県になった後、1886年(明治18年)から三井物産によって開発をされました。
西表炭鉱が辿った歴史を知ると、色々と考えさせられます。
西表島エコツーリズム協会が発行する「ヤマナ・カーラ・スナ・ピトゥ」では、西表炭鉱のことを下記のように書いています。
炭鉱が派遣した斡旋人たちは言葉たくみに日本各地から人夫を集め、西表島に送り込みました。彼らは二十四時間監視され、過酷な労働を強いられたのです。マラリアと劣悪な労働条件から逃げようとしても、奥はジャングル、前は海、それでもずいぶんたくさんの人が逃亡を試みましたが、島抜けに成功したのはほんのわずかで、あとは捕まって拷問にかけられたり、逃亡中に亡くなりました。
さらに知りたい方は、三木健氏の「沖縄・西表炭坑史」をおすすめします。
三木氏が炭鉱に関係する人から聞いた話をまとめた本であり、炭鉱夫だけでなく経営者や管理者、島民や警察など、様々な立場から炭鉱を捉えられるのが面白いです。
「昔のことだから」と済ませられるかもしれませんが、私は今を生きるなら過去を教訓にしていきたいし、そうでなければ人類の精神的発展はないと私は思います。
旅で見聞きしたことを伝え、いろんな人と一緒に考えていきたいです。
さいごに
「地域を知るってなんだろう」
正社員で働いていたときも、日本国内だけれど暇を見つけては旅をしました。
でも休みは限られているから弾丸な工程で、「〇〇にいった」という事実しか残らなくて何だか味気ないんです。
仕事を辞めて時間ができた今、前より時間をとってもわからない。
「どこまで知るか」「何を感じたいか」「最後はどんな状態か」を、大まかに考えてみるのもいいかもと思うわけです。
そして考える中で、一つでも自分の中に気づきがあることを期待していきます。